阪神大震災での鉄道の復旧
2011年3月27日 文章修正
2001年3月14日 更新

1.5時46分 「平成七年兵庫県南部地震」発生


地震当時筆者は阪急今津線沿線の震度7(激震)地区に住んでいた。震度が大きかったので、周辺の家屋はほとんどが倒壊し、電気・ガス・電話・水道は全てストップした。幸いにして筆者の家は頑丈な基礎の上に建っていたことと、活断層からはずれていたため半壊程度で済んだが、電柱や倒壊家屋により道を寸断された状態になった。よって、車での移動は不可能だったので、水や食料などの運搬は自転車が主だった。

当時中学生だった筆者は、この日阪急六甲駅にある中学校に行けるはずもなく、家の片づけに追われた。テレビが壊れたため、情報は全てラジオからのみ。門戸厄神駅南の171号線の高架橋が落橋し、西宮北口〜三宮に壊滅的な被害が出て復旧に1年半以上かかるということを聞いて、もう阪神地区は終わったなと思っていた。

この頃、新幹線の近くにある水道局にて水の配給が始まったので、30リットルの石油缶を持って行った。その時驚いたのは、「本当に」新幹線の高架橋が崩壊していたことである。日本の建築物はどんな地震にでも耐えられると言われていただけに、この光景は信じがたいものであった。日本の建築物の安全性がこの地震の1年前に起こったロサンゼルス地震で大きく言われていたのだが、安全神話の崩壊を実際に目で確認した。

2.鉄道の復旧


23日に西宮北口〜門戸厄神が復旧した。使用されていた電車は6000系か7000系か忘れてしまった。同列車は宝塚行きで、門戸厄神南側の国道171号線の高架橋の落橋を逃れたが、駅を出た直後に被災したため、踏切内で脱線した。踏切内で立ち往生したため、切り離されて復旧を待った。行先看板に「西宮北口|門戸厄神」の紙を貼り付けただけの看板を付けていた。行先方向幕は「普通」のみ出していた。

25日に安全確認のため学校へ登校した。復旧している駅で最寄となる門戸厄神まで歩いき、西宮北口まで電車の乗り、西宮北口からは代替バスに乗って六甲まで行く方法があった。普段なら40分で阪急六甲駅に行けるわけだが、この日は約3時間かかった。代替バスの運行区間に国道2号線があったため、これによる渋滞が激しかった。

30日に仁川〜宝塚が復旧した。仁川駅南側の踏切に車止めが設置された。同区間に使用された列車は5200系とその他の形式列車だった。行先看板に「仁川|宝塚」の紙を貼り付けただけの看板を付けていた。

交通に関して、1月末までの新聞各社の記事を見てみると、被害甚大であったJR・阪急・阪神の被害総額は3000億円(毎日新聞より)。また、復旧の見通しは各鉄道会社とも半年以上、阪神に関しては岩屋〜御影は見通しが立たない程であった。

3.東西の接続点「御影・住吉」


筆者の通学していた学校が2月6日に再開した。この頃復旧していた区間は、東側はJR芦屋・阪神青木まで、西側は阪神三宮まで。この日は代替バスにて登校したが、渋滞が激しく時間が非常にかかった。下校はさらに時間がかかり、六甲でのバスの待ち合わせだけで2時間以上、西宮北口へ3時間、計5時間かけたことになる。鉄道の有り難さを初めて実感した。

2月7日は昨日の教訓から、下校に関しては阪神青木まで歩くことにした。六甲からかなりの距離があるわけだが、バスを待つよりは早く、4時間弱で家に帰ることが出来た。当時の青木駅では、青木〜梅田までの特急が運行されていた。この頃はまだ鉄道振替がされてなく、青木から今津までの切符を買った記憶があるが、定かではない。

2月8日はJRが住吉まで復旧したので、六甲〜御影の距離がかなり短くなった。約30分程度で阪急六甲からJR住吉まで行くことができた。阪神御影まで開通した11日までこの方法で通学した。

2月13日に阪急御影〜王子公園が開通し、大阪から灘地区まで鉄道でつながったことになった。この日より定期券の相互利用が可能となったはずである。例えば、筆者のように西宮北口〜六甲を含む定期券を持っていた場合は、阪急西宮北口〜今津の乗車が可能となり、JR西ノ宮〜住吉、阪神今津〜御影の振替が可能となった。これにより、今まで3時間かかっていた通学時間が1時間30分〜50分程度で住むことになった。当然のことながら、東西をつなぐキーとなる駅になった、阪急御影・JR住吉・阪神御影のラッシュ時の混雑はすさまじく、JR定期券利用者に振替乗車券を配っていた阪急御影では改札内に入るのも困難であった。なお、阪神は改札機が対応していたためか振替乗車券を配ったことはなく、JRも偶にしか配っていなかった。

使用された阪急の車両について。比較的メンテナンスのしやすい8000系を使用していた。全列車8000系だったため、非常に違和感があった。なお、8001に関しては神戸高速線内に取り残されている。(96年鉄道ファン9月号より)。また、車両の搬入は王子公園の旧上筒井線高架橋からしたとある(96年鉄道ファン9月号より)。阪神は御影〜梅田の特急と普通を運行し、JRは住吉発の快速と普通を運行していた。

阪急御影の駅構内の配線について。山陽が乗り入れていた時代なので、御影駅西に山陽用の留置線があり、ここの留置線を利用して上下線の利用を可能としていた(現在も残っているが、使用されているかどうかは未確認)。ホームは梅田方面の線路上に仮設のホームを設けて線路を1本にし、乗車側と降車側に分けていた。西宮北口の今津北線のような感じである。
阪急六甲は、通過線の2本を車両メンテのために使用していた。希に電車の清掃・洗浄を行ったいた。

19日までのこれら3つの駅について。代替バスは西宮地区〜三宮地区まで運行されていたが、やはり渋滞が激しいためか利用している通勤者は少なく、空席が目立った。筆者は、朝は乗り継ぎが面倒だったため、西宮北口からバスで六甲まで通学していたが、だいたい1時間かかっていた。筆者の通学していた学校の始業が10時だったことと、バスに乗る時刻がいつも7時30分ころだったことから渋滞は気にならなかった。逆に通勤する人にとっては渋滞は冷や汗ものなので、代替バス利用者が少なかったのだろう。また、3駅間の距離は阪急御影〜JR住吉、阪急御影〜阪神御影、阪神御影〜JR住吉ともに20分以内に行ける距離であったこともあるだろう。なお、阪神御影と阪急御影を結ぶバスが運行されていたが、歩いた方が早い場合もあった。

20日に阪神三宮〜岩屋とJR三ノ宮〜灘が復旧し、これで東西が複数の鉄道で1本につながったことになる。つまり、西側ではJR灘と阪急王子公園が接続点となった。筆者の学校に関して言えば、三宮方面からの通学者にとっては普段通りに近い状態になったことになる。ラッシュの激しさはさらにひどくなったのもこの頃からである。なお、この頃から代替バスの所要時間が渋滞により長くなり、朝ラッシュ時に利用していた筆者は、阪神経由の方法に切り換えた。渋滞はJR芦屋付近の国道でひどく、大抵の人がここで途中下車し、JRに乗り換えていた。

3月1日に阪神岩屋〜西灘と甲陽線が復旧した。これで西側では阪神西灘・JR灘・阪急王子公園が接続点となった。これにより、阪神の定期券利用者がJRの三ノ宮側の電車を利用できなくなったはずである。

3月13日に阪急王子公園〜三宮が復旧した。これにより、乗り換え1回で東西の行き来が出来るようになった。当然のことながら、同区間におけるラッシュ時の混雑はさらにひどくなった。この時、阪神の定期券利用者は王子公園〜三宮に振替出来なくなると思ったが、そのような措置はとらず両電鉄とも利用出来るようになっていた。これは阪急が三宮まで、阪神が新開地まで復旧していたことからと考えられる。

3月16日に阪急岡本〜夙川が復旧した。しかし、客の変化はあまり見られず、同区間の電車はあまり利用されていなかった。この日で、早期に復旧出来る区間は全て復旧した。残りは、三宮〜大阪に関して言えば、阪急花隈〜三宮・御影〜岡本・夙川〜西宮北口、阪神西灘〜御影、JR灘〜住吉と被害が甚大であった区間のみとなった。

4.運命の分かれ道と全社復旧


4月1日、JR住吉〜灘が復旧した。ついに東西が1つの鉄道で結ばれた。このJRの早期復旧が、乗客の流れをJRへと変えてしまった要因となった。阪急の定期券利用者の振替区間はJR住吉〜西ノ宮までとなった。阪神に関しては分からない。恐らく振替区間はJR住吉〜灘と考えられる。なお、阪神と阪急の定期券の振替区間に関しては変更は一切はなかった。この頃から(8日以降)阪急御影の混雑はあまり見られなくなった。改札での混雑も一切なくなったことを覚えている。なお、8日には新幹線も全区間復旧している。

この日以降の筆者の通学手段は、わざわざJRを使わなくてもそれほど時間が変わらなかったため、変更はなく、阪神経由で通学していた。普段より30分多い、約1時間30分で学校に着くことが出来た。地震発生直後の通学のことを考えると、全く文句のいいようのない時間だった。6月1日に阪急御影〜岡本が復旧するまで、この方法で通学した。なお、下校に関しては代替バスで帰っていた。この場合、約2時間で下校が可能だった。代替バスには観光バスが使われていたため、学校での疲れをとるのにちょうどよかった。

6月1日、阪急御影〜岡本と神戸高速花隈〜三宮が復旧した。これにより、夙川〜新開地まで電車が運行された。方向幕は「夙川」のものが特別に用意された。なお、これに伴い代替バスの運行は西宮北口〜夙川に限定され、使用バスは全て一般的な通勤バスに置き換えられた。普段代替バスに長い列は出来ないのに、この時は列が非常に長かったことを覚えている。

6月12日、ついに阪急西宮北口〜夙川が復旧した。これにより、阪急1本で梅田〜三宮が結ばれたことになる。約5ヶ月もの間不便を強いられてきたので、この開通は非常にうれしく感動ものであった。車窓をじっくり味わった。この復旧に伴い、学校の授業も平常のものに変更された。

6月26日、被害甚大だった阪神西灘〜御影が復旧した。これで三宮〜梅田の3鉄道が全部復旧したことになる。ただ、阪神の場合地震で車両に廃車が多数出ていたため、ダイヤ改正は前面復旧だったにも関わらず暫定のものであった。なお26日までに、16日に山陽滝の茶屋〜須磨浦公園、18日に山陽板宿〜西代が復旧している。

これで残すは神戸高速新開地〜西代であるが、8月中旬に同区間は大開駅を除き復旧している。

5.終わりに


復旧順にただ感想を述べただけの文章になったが、筆者が実際に経験したことを交えて、既存の本ではあまり載せられていない内容にしたつもりである。震災から日時が経つにつれて、あの頃体験した不憫なこと、大変だったこと等が段々記憶から消えてしまっている。すでにこれを執筆している時点でも何点か忘れてしまったことがある。震災で体験したことを忘れないために今回執筆した。このように書き留めておき、それを読み返すことで、「あの頃大変だったなぁ」ではなく「こういう体験をしたのか」と具体的に思い出すことが出来る。忘れてしまっては教訓にならない。
このようなことを書いている筆者ではあるが、筆者は思いを伝えられるような文章を書けないので、何点か分かりにくいことがあると思うが、そのときはメールにて指摘していただければ有り難い。 「何月何日にどこそこが復旧」としか史料には書かれていないが、その詳細としてこのサイトが役に立てれば幸いである。


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